「書きたいものが書けない」とあなたは言った



また質問箱より。

うーーーんなんかこの回答長くなっちゃったんですよ。
で、質問箱の本家の方にぺたっと貼ろうとしたら、5000文字までだったんで全然足りませんでした。
行けると思ったんだけどな…私本当に文字数を把握するということができないんだな…。

ほんとはこういう話は直にしたほうがいいような気がするんですよね。結構誤解とか言葉の行き違いとかが発生しそうなんで。
なんでかっていうと、この質問者の方と私は、結構根本のところから書き方が違うような気がするから。まあそうじゃなくても字書きって、一人一人書き方は結構違うものじゃないですか?
なので私には書き手としていくつかの経験則があるつもりですが、それらは自分にしか適用されないという前提でこれまでやってきたので、その辺を便宜的に当てはめた上で「あなたにとっても」妥当なのか擦り合わせながら話してゆくのが本当は一番なんだと思うんですよ。でもこれ質問箱なんで、結局は一方通行の話になってしまう。
なんであくまで「私だったら」とゆう回答になることをご承知の上で、質問者の方には下記読んでいただきたいと思います。



多分、こういう話の「回答」って、人によってはたとえばこんな感じなのかもしれない。

「とにかくそれが書きたいものじゃなくても書いて完結させるんだよ。それはいい研鑽になるから、次には書きたいものに繋がるよ」

いかがでしょうか。はい、うんざりですね。まことに申し訳ありません。
えー――だってやだよそんなの趣味でしょ。仕事ならつらくてもがんばって何百文字とか何千文字とか書かなきゃいけないかもしれないけど趣味なんですよ。まあ研鑽自体はいい行為なのかもしれませんが、そもそも私自身が根気ゼロ全くの無なんで、書きたくないものなんて1行だって書きたくない。あと瞬時に前言撤回します。これにかけては研鑽とか意味ねえと思ってる。本当のところ書けないものを無理やり書くということに、ほとんど反自然的な不毛さしか感じていません。体調も悪くないのに下剤によって行われる人工的な排泄と同じです。健康に悪いからやめようそして漫画読んだりゲームしたりしよーぜー。
そして私は実は、まずこの方に聞きたい。

「その書きたいものは本当に書きたいものなのか」

と。

私の話をします。
私の基本スタンスに、「書きたいものが書けないっていうことは本来ありえない」というものがあります。
逆にいうと、
「書けないというのは、本当は書きたくないからである」
と考えている。
書きたくないというのは、「今は」書きたくないのかもしれないし、「別に」書きたくないのかもしれない。それはわからないけど、私は、書きたい内容があるのに書けないというのにまず違和感があります。
だって漫画や彫刻やその他様々な芸術的才能の中で、小説って一番「平凡な」ものなんですよ。
そりゃある程度は文章も訓練が必要なんだと思うさ。
でも小説を書きたいって人は、まず小説が好きって人なんだと思うんですよね。小説が好きっていう人は必ず、ラノベでもなんでもある程度は小説を読んでいる。
そして小説っていうのは数を読むうちに漠然と、「どのように書けばいいのか」ということはわかってくるものです。それが証拠にいわゆる小説入門では必ず言われます。「とにかく量を読むことだ」と。
自主的に小説を書きたいと思った人が、最初から全く書き方に見当もつかないというのは、そういうわけでかなり考えにくいです。
しかも小説というのは、下手だからって彫刻刀が滑って指を切ることはない。
馬がいる、ということを表現したいときも、「馬がいた」という1行だけで馬だと伝わるんです。
漫画であれば、これ、根っこの生えたバケツかなんか?と言われるようなこともあるかもしれないが、さすがに小説でそういうケースはない。あるとすれば逆になんか凄い高度な実験的なことやってる。

では、どうして書きたいものが書けない、と思うことがあるのか?
書きたいものとはなんなのか?

これも私の見解です。
「キャラがエモいと思うポイント」とか「自分が見たい胸熱の展開」とか「ちょう好みのシチュエーションエロ」とかは、それだけでは「書きたいもの」じゃないです。
それは単に自分の中の最高の萌えです。萌えという言葉は女性向けではもう古いのかなーとか思うけど、今のところ私は他者と隔絶した純然たる自分の二次元への狂乱を表現するのにこれ以上適した言葉を知らない。
萌えはすごく大切なものです。だって軍師たまに萌え転がってるとき、この部分が一番楽しいでしょ?これがなかったら生きていけない。でもそんなん脳内で楽しく転がしておけばいいだけじゃないですか。何も小説にしちゃわなくてよくないですかそんなのもったいない。私たちが太公望の何気ない静かな表情に突然きがくるったり、存在自体に泣いたり笑ったり楊戩から太公望への感情の重さに死んだりするのって、別にそれは自分の素人文章のネタにするためじゃないんですよ。ここは非常に重要です。
そして小説にするっていうのは、それらの自分の精神の躍動を、ある意味で殺すことですらあります。文章として落とし込まれて形になったとき、その火は揺れることをやめるのだから。

言い方をちょっと変えましょう。ここから比喩になります。
小説を書くっていうのは自分の中の好きな景色に浸ったり、自分の中にある遊園地で遊んだり、自分の中の畑を耕したりすることではないんです。それだけのほうがどれだけ楽しくて気楽か。それだけならわざわざ著作権グレーゾーンに突っ込んだりしなくていいんだし。
でも、他者にもその景色を一枚の写真のように――あるいはVRのように――味わってもらったり、他者にもそのジェットコースターを遊んでもらったり、あるいは労働を体験したりできるように提供するのが、小説にするということだ、と私は考えている。

失うものはたくさんある。

どんな妄想だって第三者の目に触れさせなければ無限に自分の好みに変容させていくことができるけど、一度形にして第三者を介在させた瞬間から、もう「自分のもの」ではなくなる。あれだけなんの責任もなく自由自在だった自分のためだけの妄想は、手入れとメンテナンスをして出荷するべき製品になる。たとえ金銭がそこに介在しなくてもこの本質は変わらない。他の誰かに見せる以上、その人が「これはおかしい」と言った瞬間、自分もまたその夢を失うのだから。

なんでわざわざそんなことをしなければいけないのか。
私の場合は、それでも他者が必要だったからだ。

太公望がささやかにゆっくりとあの完結後の世界を生きて、それなりに暮らし、満たされて、いつか誰かと再会するという物語に、私は「自分が生きるために」すがりついた。
そして私は、自分ひとりではその妄想を担保しきれなかった。どれだけ幸福な物語を考えてもそれは嘘だということを知っていた。だって私の中ではどうしようもなくそれでも原作が全てなんだ。あの太公望の最後に振り返った顔、あそこで途切れた物語が全てだった。
だから、自分の願望を形にして他の人に読んでもらって、「こういうのもありなのでは」と思ってもらうことにしたのだ。「そうだよねありだよね」「なしではないよね」という会話から自分を洗脳しようとしたのだ。なんと姑息な話だろうか。
これについては何度も書いている。
私は、WJ封神演義と太公望という存在に奈落に突き落とされて、そこから他でもない「自分が」救済されるために小説を書き始めた。自分を洗脳して、精神を安定させるために。
……まあだから外伝であれだけ動揺してたんですけどそれは置いといて。
でも人が書く理由は、それだけではないことも私は知っている。

あなたの中にたとえば神の山があり、その威容、その寂寥、その荘厳に打たれる時、あなたはそれらの「なにがしか」を他者に伝えずにはいられなくなる。
あなたの中のジェットコースターが確固たる存在となり、その緻密な機構もスピードの緩急も頂上の壮大な景色も、歳月に晒された滑車のわずかな錆までが自分の内宇宙で明瞭になった瞬間、その明瞭さは否応なく唐突に「具現化」を求める。
夏の朝の一面の霧に覆われていたあなたの中の畑が不意に陽光の下に姿を現し、大地の草いきれに煙った時、あなたは無性に耕している。――もう書いている。
そういうものだ、と私は思う。
「書きたい」というのは、そういうことの全てだ。

あなたの中にその山はあるか。
遊園地は、畑はあるのか。
もしも、もしもですよ。
非常に失礼な仮定を許してほしいのだが、もしもだ。
もしあなたが頭の中で、山の話を書きたいな、と思ってるだけなら、それは実は「書きたい」ということではない。
山で遊んだ、楽しかった、という気持ちもまだだいぶ、「書きたい」という衝動からは遠い。
「こういう山の話」と考える時、そこに自分にとっての引力があれば、否応なしにその精密な細部が眼前に現れる。
それは石段から木の道に代わり落ち葉に埋もれる登山道であり、ぬかるむ足元、柔らかな下生えの翡翠に似た薄色、自分のうるさい息切れが迫ってくるころに不意に開ける展望や、どこかで鳴く知らない鳥の声だ。
――あるいはそれら全てがなくても、頂上の景色があるだけでもいい。
そのなだれ落ちてくるような空の蒼さは、あなたの中にあるのか。そして言葉の無力さに身を切られながら、万の言葉を尽くしてでもその蒼を伝えたいという「何か」はあるのか。
それがないなら、やはり「書きたい」ということではない。
自分の中におぼろな山の写真一枚しかないなら、それをコピーして人に見せることになんの意味があるだろう。

でも――私はこちらであることを願う――あなたの中には確かに、影深く緑なす山があるのかもしれない。
木々はざわめき鳥は囀り、人が四季折々に山菜や薪を採りに入る恵みの山だ。
時折は鹿の姿を見ることもできて、奥には狼が生き残っているという噂さえ流れる、蒼翠滴る深い山だ。
そしてそれだけなら書く動機にはまだなり得ないのも先述した通りだが、あなたは本当に、それらを人に伝えたいと烈しく思ったのかもしれない。あるいはそれらを確固たるものとして手の中に残すために、刻みつけるように書かなければいけないのか、――山が書くことを、あなたに命じたのか。

ただ単にあなたは、それを言葉の世界へと引き移すすべを持たないのかもしれない。
獣の姿が見えてもなんなのかわからず、秋に赤く染まる美しい木々を見ても名前がわからないから立ちすくんでいる……。

――だとすればそれは、あなたに才能なんていうあやふやなものがないからではない。多分引き出しが足りないのだ。
ここではじめて私は、「普通の」アドバイスらしきことが言える。
引き出しはいくらでもつくれる。
小説を読め。


補記1
上記のようなプロセスを一切持たず、頭で緻密にプロットを考えて素晴らしい小説を書いている人も多分いるのだと思います。私の方法論は感覚的すぎて、方法論というには非常に脆いという非難もあるでしょう。
ただし二次創作の場合、職人気質というものが原作に対する姿勢として妥当かという疑問は、私の中にはどうしても残ります。

補記2
この最後に書いた「小説を読め」というのは、「自分の中に確固たる言語感覚を築く材料」の話であるので、できることなら単に好きというだけで選ぶのではなく、確立されたスタイルと明晰な理論を持った文章が理想的だと考えます。ただし自分が楽しく読めることは大前提です。個人的にはいわゆる「文章論」も自分の血肉にする上で十分実用に足るという考えですが、残念ながら友人からもあまり同意されたことがないですね。
お勧めを一応あげておきます。
三島由紀夫「文章読本」
円谷才一「文章読本」
本多勝一「日本語の作文技術」
「文章読本」系なら谷崎潤一郎のも好きなんですが、この人の小説本体はともかく、文章技法についての述懐はさすがに時代を感じて「実用的」とはいえないのがつらいところです。

補記3
そんなことより本出すと決めた時は書けると思ったのに今!〆切が!!もうすぐなんだよ!!!!!ということだったらマジですいません。
ただ、字書きの良いところはその気になれば一晩でも二万字書けることなんで、最後の三日ぐらいは保険に残しておいて、気持ちは焦らせず、とりあえず上記の文章論とかを移動時間や風呂で読むっていうのも私はアリだと思うよ。というか私ならそうする。明日とかだったらごめん。でもこんなん読んでる場合じゃないぞ。

星の時間ひとの時間



なんか質問箱とゆうのをツイッターでやっていたんですが、これは要するに「百の質問」「インタビューズ」「ask」から続く連綿たるネット質問ツールです。
んで質問箱がこの間なかなかのやらかし的なことをしてしまったらしくしばらく落ちてて、その間に似たサービスの「マシュマロ」ってやつがあったのでそっちをやってて、これはそこでもらった質問です。
マシュマロはなんかAIさんが攻撃的な言い方とかは削除する形式らしいんですが、私はそういう機能はいらないなーと思ったんで切ってあります。
いちおうブログしか見てない方にはツイッターでの出来事を知らなくてもわかるように書きたい気がしているので、以上解説でした。

んで、この文章は特に長いわけでもないんですが、ツイッターだとぶつ切りになっちゃって嫌なんでエントリにした。

基本この疑問への答えとしては、楊ゼンは太公望よりずっと若い生命なのだ、という線が一番万人を納得させるんじゃないかなーと思ってるわけなんですが。
人間として一度は生を受けた太公望が本来の時間ではもう晩年なのと比較すると、楊ゼンの妖怪の種としての寿命は仙道云々以前にずっと長くて、その中では楊ゼンはまだ青年期の入り口なのではないか、ってゆう。

でも実際のところさー。
12歳時点で既に一族集団の中で自分の仕事を探してこなしてた人じゃないですか。太公望は。
一度それを全部失って、世の中を変えるために何ができるのか考え続けてた太公望の60年間と、
言い方は悪いですが複雑な出自を持ちつつも環境と能力にはダントツで恵まれて、崑崙の中で自分のアイデンティティについて好きなだけ悩んでればよかった楊ゼンの200年間って、
やっぱ同じ軸で計れる時間じゃないなっていうのが大きいですね私は。

そんなことしてたから太公望は崑崙にいながらまるで地上にいるように精神が円熟し老成してったんだと思ってて、もしそうならあの口調は当然の結果でしかない。

楊ゼンのほうは太公望とゆう相手に出会ってそういう「自意識を自分の主軸に置く生き方」自体が覆ったんだと思ってるし、もしそうなら楊ゼンにとって太公望は、すかすかのスポンジに降ってきた土砂降りの雨みたいなものだ。
19の「小田急柿生」って歌の中に「君が雨なら僕は体中ずぶ濡れになる」って歌詞があるけどそんな感じですね。あの歌は悲恋ですけど。あとどうでもいいのですがこの「小田急柿生」って、私の母校の最寄り駅です。
本当にどうでもいいな。

「全てを変えないと」と呂望に語り掛けた老人が考えていたことは何か

インテの前日、姫発本の表紙印刷しながらぼんやり考えてたのが、舞台でピックアップされてたのでそこでも思い出したのだった。

あの老人の言葉は本人が言った通り太公望のスタートだったんですが、じゃあ実際発言した老人自身にとって「全てを変える」というのは具体的に何を指してたか?っていうと、
「仙人になり修業を積んで更に新しい国を興し殷王朝を滅ぼす」
みたいな夢物語のようなでかい話じゃなかったのは確かだよなーという。
まああの人が万一元始のジジイの仕込みとかだったらそうでしょうけど(笑うところ)、あそこで言われてたのって、多分もうちょっと小規模な話だったんじゃないかと思うんですよ。
相手がとにかく統領の子息だと認識して話しているので、羌族の生き残りをまとめて今のような狩られるだけの弱小部族から殷と対等な強い集団へと変えるべきだ、的なやつです。それでも現状の勢力図を書き換えることになるので、十分「全てを変える」という言葉には相当しますわね。
あの時点の呂望が復讐するとしたら皇后を狙うなんてことはまず不可能であり、殷の軍勢に単身突っ込んで実行部隊の上層部を狙って殺される、みたいなのがせいぜいであって、それはやるなと。
要するに「安易なテロリズムに走るな」みたいなことだったと思うんですよね。
でも呂望の生まれ持った運命と伏羲=仙人界の思惑は、彼が羌族として生きることさえ許さなかったわけですが。

今回オチは特にありません。